こんにちは!!

 今日は、大学で議論したり、普段人と話すときにしばしば(?)登場する「合理性・合理的」という言葉について考えたことを書こうと思います。

(1)合理性・合理的って?
 大学の議論なんかだとよく「合理性」とか「合理的」という言葉を使います(少なくとも僕は)。あまり意識せずに使っているこの言葉ですが、本当のところ、「合理性」って何なんでしょうか。

 ネットのgoo国語辞典の定義によると①「道理にかなった性質。論理の法則にかなった性質。」 ②「むだなく能率的に行われるような物事の性質。」とあります。僕がよく使う合理性はどちらかといえば①の意味が多いような気がします。

 つまり、何らかの道理に照らして内容が理にかなっているときや、内容が論理だっているときに「合理的」だと言えます。

 そもそも、人が「合理的」という言葉を使うのはどのような時でしょうか。僕が使うのは、自分の主張や発言の正当性・妥当性を強調したいとき、言い換えると相手を説得したいときにこの「合理的」という言葉を使います。
 
 社会でも、取引先との商談や訴訟における陳述、国会議員の発言などなど、自分の主張の正当性を強調し、相手の説得を試みるときにしばしばこの「合理的」という言葉が使用されます。


(2)何に対して「合理的」なのか
 次に考えてみたいのは、(1)の意味で合理的という言葉を使うときに、それはその合理性がどんな道理や論理にかなっているかということです。

 私たちがよく知っているように、この世界には万人が認める普遍的な道理や論理は存在しません。例えば、政治の世界でも増税すべきという人もいれば、減税すべきという人もいます。また、経済の世界でも政府の市場への介入を推進する人もいれば、政府の市場への介入に反対する人もいます。

 それぞれの立場にはそれぞれその妥当性を支持する学術的・経験的な背景があります。その意味ではどの主張も一定の「合理性」があると言えます。

 宗教でも、イスラム教、キリスト教、仏教でそれぞれ教義は異なりますし、信徒が行うべき習慣も異なります。したがって、イスラム教徒の行為はイスラム教の教義に照らせば「合理的」といえますし、キリスト教徒の行動にも同じことが言えます。

 このようにしてみてみると、私たちが普段何気なく使っている「合理性」には、実はいろいろな種類があるということが分かります。

 合理性の中には、経済的合理性や軍事的合理性のような〇〇的合理性のように特定の分野・領域の中で認められているような合理性があります。しかし、そういった分野・領域に特定されない無数の「合理性」がこの世界には存在しているのです。


(3)合理性のTPO
 ここまで、長々と合理性について書いてきましてが、ここからようやく本題です。

 (2)では世の中に無数の「合理性」が存在するということが分かりました。そのため、例えば、二人で議論しているときに、二人とも「私の主張は合理的だ」ということも起こりうる(というかしばしば起こる)ということになります。
 
 お互いが「俺の主張は合理的なんだから、こっちの主張が妥当なんだ」と譲らなければ議論は永遠に平行線です。建設的な議論を行うためにはどのようにすればよいのでしょうか。
 
 そこで、僕が考えたのが「合理性のTPO」です。TPOは、皆さんご存じのようにTime(時間)、Place(場所)、Occasion(状況)ですよね。「TPOをわきまえる」とは、社会生活において時・場所・状況に応じた行動をとるという意味です。

 議論においても、「合理性」のTPOをわきまえることが建設的な議論につながるのではないかと思います。つまり、その議論で話し合っているテーマに応じた「合理性」に基づいて議論することが重要だということです。
 
 例えば、「大学教育の在りかた」というテーマで議論を行う際は、「教育論」や「大学の歴史」、「社会的な大学の役割」などの観点でみたときの合理性がより大切だと言えます。逆に言えば、それ以外の観点に照らした合理性の重要度はこのテーマにおいては相対的に低下すると言えます。

 もちろん、上にあげた以外の観点に照らした合理性を完全に排除すべきということではありません。一つの論点・観点として拾い上げられるべき合理性もあります。しかし、合理性のTPOを無視して沢山の観点の合理性が出てしまうと、議論は発散してしまい掘り下げることができます。

 その意味では、議論にあたっては、ある程度参加者の合理性が参照する観点を限定できるように、より議論のテーマを絞る必要があるかもしれません。
 
 例えば、ある企業が売上減という経営課題に直面していたとします。この時、経営会議のテーマが「当社の売上増のための施策」よりも、「当社の今後3年の売上増のための施策」の方が議論の方向性が絞られます。

 こうすることで、会議の参加者が依拠する合理性の幅(この場合は、経営理論、売上増のための販売戦略や過去の成功例など)が狭まり、議論がより深まるように思います。なぜなら、短期と長期では同じ売上減という問題に対しても取るべき行動に違いが生まれるからです。

 
 今回はここまでです。最後まで読んでいただいてありがとうございました!
 
 「合理性のTPO」とイキったタイトルを付けた割には、細かい部分で論理の粗がある気がしますが、まあ論文じゃないのでよしとします。

 皆さんも、議論や今回のテーマである「合理性」について意見や面白い経験等があればコメント欄にお願いします。
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 皆さん、お久しぶりです!

 秋になったと思ったら寒い日が続き、早くも冬の兆しが近づく今日この頃ですね。

 今日は、非難と批判について考えたことを書きたいと思います。

 先日、友人と議論していた時に「非難」と「批判」の区別についての話になりました。

 両者ともに物事の負の側面を挙げる行為でどことなく否定的な印象の言葉ですが、その意味の違いをきちんと認識していなかったなあと思い、改めてその意味を確認するとともに日常における「非難」と「批判」についても考えてみました。

(1)非難と批判の意味的な違い
 ネット辞書によると、「非難」とは「人の欠点や過失などを取り上げて責めること」とあります。一方の「批判」は「人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じるこ」とあります。また、その他の意味として「物事に検討を加えて、判定・評価すること」という意味もあるそうです。

 両者に共通する意味は「人の誤りや欠点を取り上げること」であるということが分かります。その一方で、そうした誤りや欠点に対する対処の仕方において両者には大きな違いがあります。「非難」は誤りや欠点を責めるのに対し、「批判」はそれらを正すべきものとして捉え(解決法)を論じるという意味があります。

 つまり、非難が問題点の指摘とその追及にとどまるのに対し、批判はそうした問題点を改善するための行為を含むという違いがあります。この意味において、「批判」には問題点を改善しようとする積極的な姿勢が表れていると言えます。

 学問の世界においても、既存の理論や学説に批判的な検討を加えることが新たな研究の基礎となります。所謂、「批判的検討」というものがこれにあたります。つまり、「批判」という行為は既存の物事の良し悪しを検討し、必要があれば改善を加える行為だと言えます。
 
(2)日常における「非難」と「批判」
 上で確認したように「非難」と「批判」には大きな意味の隔たりがありました。しかし、日常においては、私たちはしばしばこの両者を混同して、あるいは区別せずに用いているのではないでしょうか。
 
 人は誰しも自分の誤りや間違いを指摘されるのは気持ちのいいことではありません。ましてや誤りを指摘された上にそれを責められれば不快感や憤りを感じることは必然です。「非難」とはまさにこういった行為を指します。

 その一方で、世の中には誤りを指摘したうえでそれを改善する方法を助言したり、手伝ってくれる人もいます。そのいった行為は「批判」的な行為といえます。

 自分も含めてですが、この「非難」と「批判」の区別ができていないと、せっかく相手がしてくれた助言も不快な言葉として聞き流してしまったり、相手に言い返すことばかり考えてしまうかもしれません。

 逆に両者の違いがしっかり意識できていれば、今相手が言っていることが自分の誤りを正すための価値ある助言なのか、単なる非難なのかを見分けることができます。仮に、相手のしていることが批判であり、なおかつその言説に一定の論理性があるならば私たちはその言葉に耳を傾ける必要があるでしょう。

 逆に、相手の言葉が自分の欠点や誤りを指摘し責めるだけの非難であるならば、それは聞き流せばよいのだと思います。

 非難と批判をきちんと区別することによって、日常における相手の発言が有益なものなのか単に不快なものなのかを分類することができ、もやもやすることも減るのではいかなと思います。

(3)議論における批判
 今回の記事を書くきっかけになったのは、友人との議論でした。そこでの友人の発言は、私に非難と批判の区別を明確にし、それについて考える契機を与えてくれました。その意味において友人の発言は私への「批判」だったと言えます。
 
 私は大学や私生活で頻繁に議論します。幸いなことに身の回りに議論に付き合ってくれる友人、知人が沢山います。その一方で、サークルの後輩や他大の人からは「議論する相手や場が無くて困っている」という声をよく聞きます。

 私は議論においても改めて、非難と批判を区別する必要があると思います。議論において重要なのは発言者とその意見を明確に分離することです。自分の意見の誤りが指摘されてもそれは自分への非難ではないのです。さらに言えば、お互いの意見を検討し、その弱点・欠点を改善する積極的な営みこそが議論の重要な役割であると思います。

 日本の学生間においてあまり議論が積極的に行われない背景には、相手が自分の意見と自分とを区別してくれるか分からない不安があるのかもしれません。また、相手の意見を批判することを非難するのと同じことだと認識してしまい、批判による改善という議論の醍醐味が発揮されていないのかもしれません。

 そういう意味で、議論においても非難と批判の区別が重要だといえると思います。

 今回は以上になります。最後までお付き合いいただきありがとうございました!
 寒くなってきたので、お体に気を付けてください。

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皆さん、こんにちは!

今回は前回に引き続き、国際秩序の変動をエントロピー増大の法則の観点から見ていきたいと思います。
前回は、国際秩序とは何か、国際秩序と覇権国家との関係、歴史的な覇権国家の変更とそれに伴う国際秩序の変更、アメリカ中心の国際秩序に対する中国の挑戦、といったことを書きました。

この記事を書いているさなかにも、米中間で領事館の閉鎖合戦が起こり、いよいよもって両国の対立が新たな局面を迎えようとしています。事態の鎮静化を祈りつつ、この記事はちょっとタイムリーだななんて思っています。

今回は、いよいよエントロピー増大の法則の観点から国際秩序の変更を考えたいと思います。

内容としては、以下のような感じです。
(1)エントロピー増大の法則とは
(2)国際秩序の変動とエントロピー増大の法則
(3)米中関係に見る、アメリカ中心の秩序のエントロピー増大

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(1)エントロピー増大の法則とは

 エントロピーは、ドイツの理論物理学者であるクラウジウスが1865年に熱力学で導入した概念です。「エネルギー」のenと「変化」を意味するギリシャ語tropyから命名されました。今日では、エントロピーの概念は物理学の分野にとどまらず、情報理論や経済学、社会科学など幅広い分野で応用されています。
 
 そんなわけで、今回は国際関係論に応用しようというわけです!!

 エントロピーという概念は、「無秩序な状態の度合い」を数値で表すもので、無秩序な状態ほどエントロピーは高く、秩序の保たれている状態ほどエントロピーは低くなります。

 エントロピー増大の法則とは、「全ての事物は、それを自然のままにしておくと、そのエントロピーは常に増大し続け、外部から故意に仕事を加えてやらない限り、そのエントロピーを減らすことはできない。」というものになります(私は物理学を専攻したことがないので厳密性に欠けているかもしれませんが大枠はこのような理解で間違いないと思います)。

 このエントロピー増大の法則ですが、分子生物学者の福岡伸一氏が書かれた国語の教科書の一文でお見受けしたのが知ったきっかけです。同氏は、この法則を生物の恒常性の維持の前提として挙げています(確か福岡伸一「生物と無生物のあいだ」だった気がします)。(非常に面白い文章なので是非ご一読ください。)

 エントロピー増大の法則とは、ざっくりいえば、維持しようとしない限り、あらゆるものはその秩序を喪失していく、ということを意味します。
 
(2)国際秩序の変動とエントロピー増大の法則 
 さあ、それではいよいよエントロピー増大の法則から国際秩序の変動を考えてみましょう(ようやく本題です)。

 先ほど書いたように、エントロピー増大の法則はまさに「秩序」に関する法則であり、それは同じ秩序である国際秩序にも適用できるはずだと考えました。
 
 前回、国際秩序は時の覇権国家を中心とした秩序であり、歴史的に変容してきたと書きました。こうした国際秩序の変動そのものも、エントロピー増大の法則を当てはめて考えることができると思います。

 つまり、「ある国際秩序も外的な力でそれを維持しようとしない限り、徐々に崩壊していく」と言えます。このことは、前回紹介した歴史的な展開からも明らかだと思います。
 
 国際秩序も、覇権国家を中心にその秩序の存続に利益を見出す諸国の努力なくしては維持することができません。例えば、第一次世界大戦後の国際秩序は、ヨーロッパにおいてはフランス、イギリスなどの戦勝国を中心とするヴェルサイユ体制でした。太平洋には、同じく戦勝国を中心としつつ、台頭しつつある日本を牽制するワシントン体制という国際秩序が存在しました。

 両秩序は、世界恐慌に伴うファシズムの台頭を受け、日本やドイツ、イタリアの挑戦を受けます。そして、その挑戦を抑え込むことができず第二次世界大戦という秩序の崩壊を招きます。第二次世界大戦終結後、崩壊したこれらの秩序は、アメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする共産陣営による二極構造という新たな国際秩序に再編されました。

 現在私たちが生きているアメリカ中心の秩序というのは、日本を含めた先進資本主義国かつ民主主義国が中心の国際秩序であると言えます。ただし、こうした既存の秩序も、エントロピー増大の法則に照らせば不変ではありません。

(3)米中関係に見る、アメリカ中心の秩序のエントロピー増大
 今まで無数の国際秩序が崩壊してきたように、現在の国際秩序もまた、緩やかに崩壊に向かっているといえます。しかし、アメリカも当然黙ってこれを見過ごすはずがありません。これまでも、覇権国家は自身を中心とする国際秩序を維持するために様々な手段を尽くしてきました。それは国家間の同盟関係や国際秩序を維持する国際法、国際秩序を乱す国家への集団的な制裁です。
 
 こうした覇権国家が国際秩序を維持するために尽くす様々な手段こそが、エントロピー増大の法則がいうところの「外側から故意に仕事を加えてやる」ということになります。

 前回は、中国がアメリカを中心とする既存の国際秩序に挑戦していると書きました。具体的には、民主主義や自由といった西側先進諸国の意価値観を拒絶し、一帯一路戦略で独自の経済圏を形成し、南シナ海やアラビア海、西太平洋に進出しています。

 こうした中国の軍事・経済的な膨張に対してアメリカが行っている関税引上げ等の制裁行為も大局的に視れば、アメリカ中心の既存の国際秩序を、それに対する挑戦者である中国から守ろうという意思の表れと理解できます。

 70年代のキッシンジャー(ニクソン大統領の大統領補佐官、国際政治学者で専門はメッテルニヒとウィーン体制)以来のアメリカの外交では、中国も経済成長すれば韓国や台湾のような他の東アジア諸国と同様に民主化し、徐々に西側諸国を中心とする秩序に組み込まれていくだろうと考えていました。これを "engagement policy" といいます。しかし、近年アメリカは正式にこの政策の転換を示し、中国に対して強硬な外交政策をとるに至っています。

 その背景には、いままで中国を懐柔することで自国中心の秩序内に位置づけようとしていた努力が実を結ばず、現状の中国がアメリカが維持したい国際秩序の挑戦者としてみなされるようになったからと理解できます。

 このように解釈すると、アメリカが中国に対して行ってきた(そして現状行っている)諸々の政策は、一貫してアメリカを中心とする既存秩序の維持のための行動とみることができます。つまり、アメリカは自信を中心とする秩序のエントロピーの増大を抑制しようと力を尽くしてきたことになります。
 
 かつてアメリカが「世界の警察」と呼ばれ、世界中に軍隊を展開していたことも、エントロピーの増大を抑制する「外側からの力」と見なすことができます。しかし、2013年にオバマ大統領は「米国は世界の警察ではない」と宣言しました。同年、中国の習近平国家主席が「一帯一路構想」を発表したのも偶然ではないでしょう。

 トランプ大統領は経済的により少ない負担での軍事的なプレゼンスの維持を目指し、日本や韓国などの同盟国にも安全保障上の負担増を求めています。こうしたアメリカの世界的な軍事・安全保障上のプレゼンスの縮小は、アメリカという覇権国家そのものの弱体化という意味以上にアメリカが体現し維持しようとする国際秩序そのものの脆弱化を意味しているとも言えます。

 エントロピー増大の法則を国際秩序に導入することで、国際秩序の変動を、国際秩序の漸進的な崩壊とそれを維持しようとする覇権国家の行為の結果として解釈できると思います。


 以上、つらつらと小難しい文章を書きましたが、個人的には物理学の法則を国際関係論のような社会科学にも応用できる(できてなかったらごめんなさい)ということが面白いなと思いました!!

 このトピックについてはこれで終わりにしようと思います。感想、コメントがあれば送ってもらえると励みになります!最後まで読んでいただきありがとうござました! 東大生ブログランキング

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