皆さん、こんにちは!!
今年も早くも師走ですね。今年はコロナのせいであまり出かけられなかったり、いろいろな制約があったりであまり何かをしたという実感がないです。そのせいか、一年がたつのがあっという間だったように思います。
今日は、この前友人と話していて興味深く思ったことを話します。
その友人も私も人の話を聞くことが好きという共通点がありました。なので、「人の話を聞く」時にどんなことを意識すべきかという話をしました。
色々話す中で、人の話を聞くときに先入観や主観をどこまで出すかという話になりました。友人は、普段は現象学的(本人がそう呼ぶ)な話法として、相手の話に対しての先入観を「」に入れて留保する、言い換えれば、先入観を可能な限り排除するといいます。先入観を排除して相手の話を率直に受け入れることで、さらに相手のことを深堀って聞くことができるといいます。
なるほど、もっともです。先入観を持つと、相手の言ったことを自分の中で勝手の解釈して理解した気になってしまうことがあります。先入観を排除することで、相手がどうしてそう思ったのか、どうしてそのように行動したのだろうかといった新たな疑問が浮かびます。また、相手の属性だけでその人を解釈しその行動や思考を意味づけるといった短絡的なことも防げます。
まあ、ここまでだとよくある「人の話を聞くときは先入観を持たずに聞きましょう」という教訓話で終わってしまいます。
その友人はこの「話を聞くときの先入観や主観」という問題についてもう一つに視点を持っていました。
その友人がある友人と会話をしていた時に、「(友人)には私がそういう風に見えてたんだ、それを話してくれてありがとう。」と言われたそうです。この時、友人は、他人から自分がどう見えているのかを知りたい人もいるんだということを知ったそうです。
話が少しそれますが、この「他人から見た自分」を知りたいという気持ちは多くの人が持っているのではないでしょうか。
他人から見た自分はアイデンティティを形成するうえでも重要です。人は自分の自分自身へのイメージと他人から見た自分のイメージが一致しているときにアイデンティティの充足を感じます。また、哲学者の鷲田清一さんも、人間は他者との関りの中で自己像を獲得するといっています。フロイトも人は他人から見た自己像を自分自身の自己像として借用するといっています。
友人は、その意味において、自分が人に対して持った主観的な印象をその人にある程度伝えることも重要だと思ったそうです。
そう考えると、人の話に対して先入観や主観を、特に主観を完全に排するということは、その人に自分から見たその人のイメージを伝えるという点で不都合があります。
ここで、人の話を聞くときに先入観や主観を排除するべきかどうかというアンビバレントな問題が発生します。
相手のことを深く知ろうと思えば、先入観、主観を可能な限り排除したほうがいいような気もしますし、一方で、相手に自分から見た相手の印象を伝えようと思うと主観的にならざるを得ません。
もちろん、話す相手との親密度や場面などの状況に応じて変わってくる話ではあります。そもそも全ての人が他人から見た自分を知りたがっているわけでもありません。さらに、人が話を聞くときにどんなに意識しても完全に先入観を排除することもできませんし、人が「主観的な」解釈を行わなければそもそも相手の話を理解することさえできないという議論もあるでしょう。
そういった意味でこの議論はもう少し精緻化が必要ではあります。ただ、この話から、その友人が人の話を聞くということを真剣に考えていることが伝わってきましたし、それは素敵なことだと思いました。普段何気なくやっている「話す」という行為についてよく考えてる友人の話を聞いて、自分も改めて「話す」ということを考えてみようと思った次第です。
ここのところだいぶ寒くなってきまして。皆さんもお身体にお気をつけて!
